試作

人生とは何か。予測不可能な未来、曖昧な過去。

サピエンスという種。600万年前にサルと共通の祖先から猿人が生まれ、原人、旧人を経て現在の新人へと進化した。僕たちサピエンスは20万年間、多くの同胞を殺戮しながら現代まで生き延びた。

生物学者リチャード・ドーキンスは『利己的な遺伝子』において、「DNA自体が本体であり、ニンゲンはDNAの乗り物に過ぎない」と述べている。利己的なDNAの使命は、子孫という形で自己を複製することなのだ。僕は思った。生物学的な観点からニンゲンを見た時、人生に意味はないのだと。僕らは植物や動物と何ら変わらない、自らの種の存続を目的として生きている。

僕は種としてではなく、個としての人生とは何かと問いたい。まず文献を漁る。ゼロから考えることに意味はないし効率が悪い。新しく思いついたと思ったことの大半は過去の先人によってすでに考えられたものである。

歴史。そこには2種類のニンゲンがいた。使う側のニンゲンと使われる側のニンゲンだ。更新世が終わり地球が温暖化した1万年前、農耕の始まりから人類の文化が始まった。農耕は格差を生み出し、人々を使うものと使われるものに分けた。僕たちは稲や麦に支配されてしまった。権力を握る上位数パーセントのニンゲンに僕たちは職業や役割、人生の意味を与えられ、それぞれの生を全うした。僕たちの人生は、生まれたときから決まっていた。多くの人は与えられた運命に抗うことはできなかった。多くの人にとって人生は苦の連続だった。

苦から逃れるための救いとして、僕たちは物語を作った。祈れば救われるという物語や、来世や天国で救われるという物語、絶対的な力や目には見えない超常現象が存在するという文脈の中に自分たちを位置づけた。

でも僕たちは知ってしまった。400年前の科学革命により、すべてが虚構であり、真実ではないということに気づいた。この世界を包括する宇宙、太陽系、地球、すべての物質すべての生命は物理法則によって動いており、人間も例外ではないと。イェール大学教授のシェリー・ケーガンは著者『「死」とは何か』で「人間は死んだら無に帰るだけだ」と述べている。どのような死に方であれ分解者によって時間がたてばO、C、H、Nなどの元素となり地球を循環する。そこに魂はない。つまり、どのように生きたとしても死によってすべては消えてしまう。来世も天国も地獄もない。それは僕たちが死を恐れ救済のために生み出した物語に過ぎないからだ。

死によってすべてが終わるなら人生に意味はないのだろうか。

「人生の目的は社会貢献だ」などとよく言われる。『嫌われる勇気』でもそのように書かれていた。だが本当にそうなのだろうか?僕も昔はそう思っていた。だから医者を目指していたし、経済理論によって貧困をなくそうとも思っていた。でも、ロルフ・ドベリの『Think clearly』には歴史に名を残したところで意味がないと書かれていた。だってそうだろうアメリカの名前を聞いて、それがイタリア人の探検家アメリゴ・ベスプッチによって発見されたなどと誰も知らないし、知っていたとしても「ふーん」くらいにしか思わない。アインシュタインアインシュタイン方程式を証明しなくても、人類の知は蓄積されていき、いずれ別の誰かが発見していたというのだ。明治維新はイギリスの介入による力が大きく作用していたし、偉人なんてただの自己満足でしかない。社会貢献は種としては必要だが、個としては必要ではない。

人生とは結局なにか。歴史と対比してわかったことは、現代では職業や身分、思考があまり制限されておらず、人生の意味を自分で定義できること。あまり意味が多様化しすぎたせいで価値観が曖昧になり、アイデンティティ・クライシスやメンタルの不安定化が起きていること。現代人の鬱病やメンヘラは、こういった社会的環境の変化だけのせいではない。

600〜1万年前までの約600万年間の狩猟採集生活。農耕は1万年。つまり脳は「狩猟型」:「農耕型」=600 : 1 の比率で進化している。現代人の脳は現代のイノベーションに対応しきれていない。その例が肥満などの現代病だ。現在、食べ物が足りなくて死ぬヒトよりも、食べ物の食べ過ぎで死ぬヒトのほうが多い。これは脳が狩猟時代のままで、「糖分」や「脂っこいもの」に対して再現のない食欲を引き起こしてしまうからだ、現代人はガラケー(脳)にiOS(最新の情報や技術)を無理やりインストールしたようなものだ。実際、数々の研究により狩猟採集時代の食生活を送ることで肥満だけでなくメンタルや脳機能が向上することが確認されている。

よって、人生の満足度を高めるためにはこのガラケーiOSの差を解消することが必要不可欠であることは自明である。

まず、脳をハックするには、食事、断食(intermittent fasting)によるオートファジーの活性化、睡眠、運動、瞑想(meditation)による脳のハックetc...が必要なことが科学的根拠とともに明らかになっている。

次に、思考・精神のハックについてだが、ピグミー族という狩猟民は双曲割引率が非常に高い=目の前のことしか考えてない=未来について考えてない。一方、現代人は常に漠然とした未来について考えなくてはいけない状況にある。つまり、ミスマッチをなくすためには未来と今の時間を短くとらえるような思考法のインストールが必要である。(自己連続性)

さらに、他人モードで生きるのをやめる。人は、自分の視細胞からしか世界を知覚できない。(さらに、視覚は差分認識しか行うことができない) 例えば、スタンフォードのケリー・マクゴニガルは「自分の捉え方次第でストレスによるホルモンをコントロールできる」と提唱している。ストレスホルモンのコルチゾールやアドレナリンをオキシトシンドーパミン、DHEA(神経成長因子)などに「自分の解釈を変えるだけで」変えることができる。自分がストレスフルに生きている原因は自分にある。このように自分の考え方や思考のソフトウェアをアップデートさせ続けることは、満足度の高い人生を送る上で必要である。他人モードでいつも他人からの評価を気にし、承認欲求によって生きるヒトは、他人から見向きもされなくなった瞬間終わる。自分をハックして、自分を変えていけ。ヒトに頼るな。人類学者のロビン・ダンバーが提唱するダンバー数は150人。ニンゲンは150人ほどのコミュニティしか維持できない。SNSで多くのヒトとつながったとしても、脳はミスマッチにより疲弊している。承認欲求を消し去れという点ではアドラーに賛成する。他人のために、他人の人生を生きることに意味はない。(種としての本能により、他人を助けると自己肯定感upや、自己満足などにより幸福度があがることがわかってはいるが:ヘルパーズハイ)

欲望は満たしても満たしても満たされることはない。限界効用逓減の法則というものがある。お腹が空いているとき、1つ目のパンは美味しいが、2つ目、3つ目、4つ目と食べていき、5つ目にさしかかったとき、そのパンはもはや美味しくない。満足度はしだいに低下していくという理論だ。ノーベル経済学賞を受賞した行動経済学者のダニエル・カーネマンは、幸福に生きられる年収は800万円がピークという理論を提唱した。800万あろうが1000万あろうが、食べられるパン(必需品)の数は変わらんということだ。

すべての欲望はフィクションだ。その欲求は、本当に自分の欲求だろうか。多くの人が死に際に「自分の人生はどこか他人の人生だった気がする」と後悔するという研究がある。自分の人生を生きていいんだ。それほんとはフィクションにすぎない。欲望に際限はない。人生は基本的に苦の連続だと受け入れることで、プロスペクト理論によるセットポイントを下げておく、満足度の基準を下げておく。最低限の欲求だけを満たし、多くを求めない。望むだけエネルギーと時間の無駄だ。

人生とは、すべてはフィクションだということに気づいた後、自分だけの物語を作り出すことだ。38億年前に生命が誕生してから自分が誕生するまでの約38億年間意識がなく、死んでいた僕たちだ。たった数十年意識があったくらいで今さら死を恐れることに意味があるのだろうか。数十年前の状態に戻るだけだ。万物は流転する。時の不可逆性という物理法則は覆せない。安心して余生を全うしよう。